昭和43年05月23日 月次祭



 親神様よりおかげを受けて来られた事を、神様のお使いによってそれをお控えになる。ご自分の信心の歩みというものを、神様からお知らせを頂かれ、また自分もおかげを受けてこられた事を書き留められたものが、ご伝記になっておる訳で御座いますが、それを基にしたもので御座いますね、ご伝記はそのご執筆をなさいます途中にご執筆されながら、お書きになりながらその感涙にむせんで居られる所が御座います。
 その事も書いておられますねここまで書いてまいりましたら、嬉しいやら悲しいやらと言うて、感涙にむせんで居られる訳です。どうしてこの様な事が出来て来たであろうかと。その凡人であるいち百姓の私にこの様な尊い道を開かせて下されて、この様に人が助かりこの様に道が開けてまいりました。どうしてこの様な事が出来て来たあろうかと思うて、嬉しいやら悲しいやら分からん程の喜びに所謂感涙に咽んでおられた。
 その時にその事を書いて居られるところへ、また天地の親神様が言うておられますね。その方金光大神が悲しいのでない、神も悲しみ神の喜び。ここで悲しみというのは、悲しいまでに嬉しいと、悲しいまでに喜ぶという、そのどうにも表現のしようがない言葉ですね是は。有難いという言葉の表現のしようのない言葉だと思いますね。その方金光大神が有り難いのではない、神がうれしいのである。
 詩人なら詩も詠もう絵描きなら絵にも描こうものにと言う風に仰っておられますね。こう言う様な気持ちを詩でも詠う。作る人ならそら詩にでも作ろうけれども、神には言葉もなし口もなしその感動どうも現しようがないその感動が金光大神の心の中に通うて来た。金光様がどうしてこの様な事が起きて来たであろうかと、思われた事はそのまま天地の親神様がどうしてこの様な事が起きて来たであろうかと感動なさっておられます。
 この辺に私は、私は他所の信心を知らんから。けれどもですね、その感動と喜びがですそう言う嬉しいやら悲しいやらと言う様なその感動になって伝わって来る様な宗教が又何処かにあるだろうか。私は今日その事をしきりに考えるんです、ね。様々な素晴らしい悟りを開いて、そしてそこに、まあ安心立命を得ると申しましょうか。まあ言うなら、まあ悪う言うと、ドライな考え方になるのかも知れませんですね。
 信心によってもう煩わしいものも何もなくなってしまう。いわゆる割切った考え方と言うかも知れません。けれどもそれを悟りとこういう。今朝からも私皆さんに聞いて頂きました中に京都に参りますと、竜安寺というお寺があります石庭で有名なお寺さんです。あちらの手洗い鉢に吾唯足るを知るという有名なお手洗が、先ずこの位ばかりのこう丸い円形の円筒です。その上に四角に彫ってある。
 その四角い口がその口という字になっておるわけです。例えばそう言う様な是はまあ禅の悟りというか仏教の悟りというか知りませんけれども。どの様な例えばその貧弱な生活をしておりましてもです、もう吾唯足るを知る。もう是で事足りた。もう足りておる。言うなら満ち足りておる。そう言うものを開くのが信心であり、悟りだと言う風に、又そう悟っておりますね。
 ですから成程そのそういう素晴らしい悟りを開くのですから、もう素晴らしい事に間違いはないけれどもですね、進展がない。言わば溢れる様な物がない。人間て言う物はもうどうせこう言う様なもんだ。もう心配したって同じ事だ。成る様にしか成らんのだからと、と言う様な、例えばひとつの悟りの境地がです、そういう悟りが開ける所に、不安もなからなければ心配もない。
 良寛さんじゃないですけれども、五合庵という自分の住んでおる庵を五合庵と名付けて、五合より以上お米を置かない。五合がすんだらまた托鉢に出る、もう実に安気安穏の生活、ね。金光教の信心はそういうその安気安穏の生活ではないと言う事。金光大神が嬉しいやら悲しいやら、どうしてこの様な事が起きて来たであろうかと感涙に咽ばれる、そういう言わば生活なんだ。
 金光様の信心さして頂きよったら、もう思えば思う程、もう何とおかげを頂いて来た事であろうか。何と有り難い事であろうか。それがね、湧いて出て来る様な感動になり、喜びになり、しかもそれが尽きる事がない喜びに浸られるという信心が他にざらにあるだろうか。成程お道の信心は喜びをもって根とするとこう言う風に、例えばその根賀以、新聞の根賀以のあれを頂く時に、賀びを以って根とするというのが。
 是は宗教と言うよりもむしろ、この金光教の信心なんです。金光教の信心は是なんだ。賀びを以って根とする。その根から限りなくその賀びが湧いて来る、溢れて来るのである。そういうおかげを頂いて行くと言う所に、お道の信心の素晴らしさと同時に限りない又修行があるのです。今朝からその事も私皆さんに聞いて貰ったんですけれどもね。お道の信心では是で済んだとは思いませんという。
 所謂自己を肯定しないでの生き方、同時に否定もないという生き方。そこからねそこから限りない賀びの源泉とでも申しましょうか。そこが元。そこから湧いて来る物なんですね是で済んだとしない。同時に是ではいけないと言う事もないというのですから。こういう言葉はね是はあの哲学的と言うそうですね。自己を肯定しないでの生き方と言った様な表現はですね。
 それをもう少し分り易く言うと、金光教的に言うと、教祖の神様のお言葉の中に有ります様に、是で済んだとは思いませんと言う事なんです。それでいてなら是ではいけないとも思いませんという(?)ね。この辺の所の信心が言うなら難しい。この辺の所の信心がなされて居らなければおかげにならん。この辺の所の信心を頂く為に、私は今日は皆さんに、ひとつ分かって頂きたい。
 是で済んだとは思いません。という何時もです、自分の心の中に求めてやまない、折があったら機会があったら、チャンスがあったら本当の信心にもっと素晴らしい信心に飛躍していく。それは負うた子から教えられる様な事があっても、それにすっとこう飛躍して行こうとこう言う訳。かと言うて現在の信心を決していけない、悪いとは思いません。否定しない。しかも肯定もない。
 難しいですね。それはどう言う事かと言うとですね、私が今日皆さんに分かって頂きたい所はね。是でいけないというのではないというのです。と言えれる信心を頂かなければならないと。例えば毎日、日参をさして頂くと決めておる者が日参を止める。時々参るそして是で良いと言う様な思い方ではいけんのです。今日私が言うもう何処から湧いて来るやら、何処から頂けるのやら分からない。
 嬉しいやら悲しいやらと言う様な感動になって表れて来るのです、そういう感動を頂くと言う事がです(?)です。是で済んだとは思いませんと言う事と同時になら。是ではこのいけないと云う事はない。自分のしておる信心、例えば私がんなら今、朝の3時半に控えに出てまいります。4時から御祈念をさして貰います。そして12時まで御用さして貰います。例えばそういう毎日毎日のその繰り返しがです。
 是で済んだとは決して思うていない。けれどもです是がいけない、是が間違うておるとは思いません。そこから生まれて来る所のものがですね、言わば吾唯足るを知るとこう、何でしょうかね、満足しておるというか。と言う様なものではなくて、もう決して満足ではない。んなら是でいけないというのじゃない。そこにも喜びを感じておるけれども、是で決して良いと言う事じゃない。
 もう尽きる事のない限りのないおかげを是から頂いて行こうという体制。そこには是で済んだとは思わないという信心がある。自分がこう言う風な信心になって行きゃこういうおかげを受けられると言う事が分かって来る。段々それで是で良いとは一つも思っていない。かと言うてなら現在は私は私なりに一杯の信心をさして頂いておると言う事なんです。それが是は間違うておる、是はいけないという事は又さらさら思わない。
 そういう中からですね、私はお道の信心の恐らく是は宗旨宗派にはないだろうと思われる、信心の喜びという、尽きぬ喜びというものが頂ける。私はこう思うてみて、随分今まで宗教誌を読んで来たんですよね、若い時から。けれども今日私ここに思いが至った時にです、こう言う様な表現をしてある所がないです。どんな教祖宗祖、どういう先覚の素晴らしい信心の出来た人達でもですね。
 そのもう吾足るを、唯足るを知ると言う所までの表現はして御座いますよね。そういう悟りを開いた所までの。ところが金光教の信心は、それでは満足していないというのですから。と言うて不平不足を言いよるのじゃないです。そこに最近言われておる所の神の氏子としての自覚。それから今日、皆さんにお話しましためぐりの自覚、我屑の子の自覚。もう本当に私の様な者に、いわゆる教祖の神様が。
 自分のおかげを受けて来られた事を、お書き記しになってあられるその途中に。ここまで筆を勧めて参りましたら、もう筆が進まん程に嬉しゅう、嬉しいやら悲しいやら分からん。何処から湧いて来るやら分からん感動に咽ばれる。感涙に咽んでおられる。どうしてこの様な事が出来て来たであろうかと。いわゆるいち凡夫である私、いち百姓である私。何にも出来ん私がです。
 の所にどうしてこの様な事が出来て来たであろうかと思うたら、うれしいやら悲しいやらとこう言うておられる。そして、其処にはです、どげんなっておるかと言うと、金光大神が嬉しい、有難いのではない、神が嬉しいのであると仰って居られる。そこに自分の感動を書いておられるかと思うと、次には神様のお言葉をそこに書いてある。金光大神が嬉しいのでは神が嬉しい。
 神を信じ、又神から信じられる。親が子を信じ、子が又親を信じる。信じ信じられる中から、そういうものが生まれて来た。段々信心さして頂いて、まあどうして私の心の中にこの様な浅ましい心があるだろうか、こういう汚い心があるじゃろうかと、段々分かって来る。自分がいよいよ分かって来る。そいう分かって来れば来る程です、実意丁寧にならなければおられない、自分が分かっておる。
 そこからおかげが流れる。おかげが頂かれる。そういう汚い自分にも、神様がこの様なおかげを下されて、有難い勿体ないという有り難い。ですからもうとにかく出来ませんとに頂きよるのですけんね。もう勿体ない勿体ないとこうして頂きよるとです、だからもう限りがない( ? )もうここまで頂いておれば何もいらん。欲しいとも思わない。もういつも満ちたりた考え、そういうもんではさらさらないでしょうが。
 満ち足りたと言う事じゃないです、金光様の御信心は。もう金光様の御信心で是で良いのだと言うたらもうそれは自分を肯定しているから、なのだからもう金光様の御信心ぶりではない。もう満ち足りたというのではない。是で済んだとは思いませんという中にです、もうこんなに頂いてもいいだろうかという、おかげが限りなく頂けれる。そこにいわゆるめぐりの自覚というのですね。
 いわゆる屑の子の自覚、我屑の子の自覚。我屑の子の自覚が出来れば出来る程、神は屑の子程可愛いという働きが始まる。神はこの屑の子程可愛いのが神様の心なのである。そこを私共はいよいよ、屑の子の自覚が出来て行く。同時にこの前から頂きます様に、私共の心はもうもって生まれた時からすでに神様なんだと言う事。吾、吾、神と言う事なんです。神の分身と言う事。
 唯、まあ何と浅ましい汚いと思うておるのは、自分のめぐりが汚いのである。家代々から伝わって来ておるめぐり。自分が作っためぐりなのです。是が汚いのであり、そこを見る時に、我いよいよ屑の子の自覚に立つのだけれど、是をです外して一遍自分を眺めてみると、成程神の氏子としてのものを全部備えておるのである。神の氏子であるという、実証を自分の中に感ずるのである。
 そこから、今度どう云う事に成って来るかと言うとね、確信が生まれる。この辺が又素晴らしい。我神の子の自覚に立たないと、確信が生まれて来ない。今日私は午前中にご無礼しとったから、午後から又奉仕さして頂いた。したらもうもう5時頃でしょうか。末永さんが御用頂いておった御用半ばにある、今朝の御理解のお伺いに出てやって来た。もう今朝の御理解なんか、頂きよるともう大学の講義を聞きよるごとある。
 ところがその、今日のはテープに入ってないもんですから、その肝心な所は書き留めておる、それが中々難しい。その事に関連したお伺いであった。それで私はこう言う風に言うたら、言葉が詰まって言葉が出なかった。それが自分の事でもない。このね、今日の自己を肯定しないでの生き方。そして否定もないという生き方。そういう生き方の中から。生まれて来る尽きぬこの感動というかね喜び。それが辛抱して行っておる内に徳が受けられる。匹夫の凡人から道を開くのであるから、中々暇が掛る。
 けれどもその暇が掛っておる間にです、それを辛抱して行きよる内に徳が受けられる。 その徳が受けられるという徳は先生、私はこう言う風に思うのですがと言うて、私のあの20年前のお話を思い出してから話されるんです。私が善導寺の親先生とご本部参拝した時に、私が調ど弟の戦死の公報を受けた月であった。それで神様からどう言う訳に大坪が死んだのか、戦死したのか。
 是だけの信心さして頂いておるのに、どうしてこう言う事になったのか。それが知りたかった。もうそれこそ一晩中、奥城に座りぬいての御祈念であったけれども、それこそもうお知らせの「お」の字も受ける事が出来なかった。翌日控えから下りてまいります、そのガラガラの所で、後ろから親先生が、私は親先生のカバンを持って前にこう進んでおると、大坪さん今度は何かお土産が出来たかとこう言われて。
 途端に「はい、お土産が出来ました」と言うたらですね。言うた途端に私の心の中に何かそれこそ、千万斤の重さを持ってというのはあんな時じゃと。もう自分の心の中にどんと何かこう入って来た感じだった。さあそれをもう、それを境にです、もう何を見ても何を聞いても、とにかく嬉しいやら有難いやら分からんものが湧いて来た。復員軍人を見ると、あの中に自分の弟が入ってだんおらんじゃろうか。
 もし万一と言った様な思いで行き掛けに来た私がです。やっぱりその帰り道々そういう人達沢山会うけれどもそんな思いは全然何処にひょっとして、そのお客さんの中に紛れておるのじゃなかろうかと言う様なその思いでは無くてです、皆さんご苦労さんと言うてもういちいちお礼を言うて歩きたい様な気持ちだった。車窓から見る丁度稲穂がこの位伸びておる時であったが。もうそれを見るともうそれがもう感動であった。
 満員で一遍混乱状態のあの旅行の時代ですから、席が掛けとくとまあ皆が年寄りに見える困った様な人が来るとすぐ立ち上げられる。もう席を譲ってあげることがもうとにかく、涙が流れるほど有難かった。そういう話を聞いておったんですね。先生徳というのは、結局ああいうものではなかろうか。そうなんだ矢張り徳というのはそれなんです。それが、信心辛抱さして頂いておる内にです、自分の身に付いて来る。
 と言うてそのまた説明を色々さして頂いたんです。いわゆる今日の今朝の御理解の中に、我屑の子の自覚と言う事。それから又は、その反面には我神の子の自覚という。神様の子であるかと思やあ、屑の子の自覚。まるきり矛盾する様であって、絶対矛盾ではないのだ。是が一つになって溶け合っておるそこから、有難いやら勿体ないやらが生まれて来るのだと。と説いたんです。
 今朝は矛盾じゃないのです、それをまあ分けて言うならば、あの日蓮聖人様という方は非常に信念の強い方であった。もう自分の(?)で絶対本当と思うたら、それが時の大将であろうが、どういう偉い人であろうが、もうそれを本当と言いきる言い、だんげんしなければおれない程の人であった。だから何回もなんかいも責を受けられたり、罰を受けられた訳なんですね。
 佐渡が島に流される時に、もう大変な大嵐で、もう今にも船が転覆せんばかりの大嵐であった。その時に、親鸞はその船の上から南無妙方蓮華経をこうやって書いた、ふうに。そして今、日蓮は佐渡に行きよるのだ。もうこの確信たるやですね、自分が例えば佐渡の方へ行きよるのにね、海が荒れると言う様な筈があって良い筈が無いじゃないか。誰が行きよるか。日蓮が行きよるのぞと言う様な態度なんです。
 そこんところを私が話しよりましたらです、声が詰ってどうしても声が出なかったんです。後から考えて見てですね、どう言う事じゃったじゃろうかと思うたんです。そしたらね、あの信じられる喜び、ね、神様が信じられなさったです、日蓮から。それを神様が感動ましましたんです。また、それを神から信じられる日蓮、信じられ、信じられる、信じる。教祖の神様の場合がそうです。
 天地の親神様からもうこの方ご一人、この方一人こんなものこんな氏子は又と見た事がなかったという程のご信認であった。その神様も又限りなく信じられた。信じ信じられた。今日私が申しております、その二つの矛盾の様であって、矛盾でない中からです、まあそれから一方には、少し性質が違う様ですけれども、教祖の信心とは性質は違いますけれども、あの真宗ですね。
 親鸞聖人様もうご晩年に至ってからでも、自分はもう日本一の大悪人だと言われた。もう私の様な悪人はおらんて言われる。人から生き仏様と拝まれる様になられてからでもそれであった。是はもういよいよ、我屑の子の自覚に立たれた訳なのです。そして、日蓮の場合はもう我、神の子である自覚に立った訳です。だから先の王様が言おうが、そんな事なんか問題じゃなかったんです、自分の方が上だと思って。
 日蓮の言う事に間違いはない。それはもう、天地でも自分の日蓮の為に天地が動きなさることを信じておる。その事を私は話さして頂いて、感動さして頂いたら、天地が信じられなさったと言う事の感動と喜びであった。700年・800年なったか知らんけれども、800年前に日蓮が天地を信じた。その時の感動が、今日、私の心に伝わった。まあ大げさに言うなら。神を信ずる。
 その私共が神を信ずると言う事はどう言う事かと言うとね、もう神様が一番喜んで下さる事なんです。そらそうでしょうが。子供が親を絶対に信じておる。子供が自分を信頼してくれておると思うたら、こんなに嬉しい事はない、親として。反対に又、子供が、家の子供だけは間違いがないと信じる。もう親としてこの様な幸せはい。子供が信じきられるという程、幸せな事はない。そうでしょうが。
 ここで、私は皆さんの中から出ます。誰かが中傷する。誰々さんこの頃どげんこげんですよ。もうあの人に限って間違いなかが。と例えば私が言えれると言う事は私は助かる。ちょっと注意されたらそげな事と言うて、私がそれに不安を感じる様な事では、それは言わばその疑われた者も不幸せ。いわゆる先生に信じられ先生が信じられる。信じ信じられる仲にまずなってこなければ金光様の御信心は始まらない。
 そこから神を信じ、神から信じられる所の信心。それが様々な事柄、様々な難儀な事、いわゆる、下から上へ水を引く様に難しいと仰っておられる。だから一時に、それじゃあおかげにならんと言うておられる。けれどもその辛抱をして行きよる内に徳が受けられると。その辛抱して行きよる内にです、例えばどの様な場合でもどの様な事柄でもです、それを一切、ここでは一切それを神愛と信じよと言うておる。
 おかげにならん事も神愛の表れなのだ。難儀な問題が起きて、ここでもそれが神愛の表れなのだ。それをなるほど神愛であると分からして頂けれる楽しみというか、喜びというものはです、この期間が長ければ長い程、その楽しみおいうものが、喜びというものが大きい、そうして行くからお徳が受けられるのである。そして後には神のおかげで開かせて貰うのぞとこう仰っておられる、神のおかげでと仰る。
 今朝、毎朝北野の上野さんが参って来ます。「けいこ」さん。最近、普請を思い立ってる。だからと言わば、もうぼちぼち「としお」さんちゅうのが主人ですから、としおさんにも、もう参って来る来んはどうでもいいから、ぼちぼち言よらにゃいかんばい。あんたどんが頑張ってから、さあ是から借金背負ってに家を建て直そうというのです。そしてそれを建て上げられた、建て上げられるであろう。
 そして今の調子でおかげ頂いたら、借金払いでも何年後には出来るだろう。お父さんが頑張ってからこの家が出来た。と言うたんじゃね、けいこさん、全然値打ちが無いよって私が申しました。例えばあの浪花節語りさんが見台掛けば持っとろうが。是はもう、金糸銀糸で作った見台掛けを持っておっても、それを自分が作った(けんだいかけ?)じゃ値打ちはなかろうがと私が。
 是をね何々さんへ、何々よりと言う様にです、地域から送られたというのであって、是が値打ちがあるのだ。それを信心の薄いもの信心のない者はです、誰がおかげにもならじゃった、あれはもう自分で建てたと言う様な事の方が有難いごと思うとる。所が自分が建てた家ぐらい詰らん家はないて。自分が頂いたおかげを自分で造った。田地田畑ぐらい、私は詰らん値打ちの無い物はないて。
 神様のおかげでという実感。神様のおかげで道を開かして貰うのである。神様のおかげで出来たんだ。そこには又神様のおかげと言わなければおられない程の、素晴らしいタイミングの中にお繰り合わせの中におかげを被って行く。神様のおかげで道を開かせて頂くのだ。その道を5年掛るやら10年掛るやら20年掛るやら分からないけれども、ここん所が(?)ですね。教祖ははっきり御理解の中に難しいと、難しいと。
 匹夫の凡夫から道を開くのであるから、おかげを頂いて行くのであるから、大変難しいと。と言うのは信心が難しいというのじゃないのである。容易のじゃがと仰る。だから信心をみ易くする為に、私共が言わば、我屑の子の自覚にも立たなければならない。我神の子の自覚にも立たなければならないと、言う程の信心が分からなければならない。そこに、いわゆる確信する所の力が段々強う成って来る。
 そこんところに神の喜びが、神の栄光を一心に受ける事。神様を百信じれば、百の栄光である。千も万もと信じれば、千も万もの栄光がここに燦と輝くのである。しかもそれは神様が、もう神様ば信じて、信じられなさったけんが、嬉しゅうてこたえん思えんごとなったおかげ下さりよる。こういうおかげでなからにゃいかんとじゃろうが。どうぞ下さい下さいと言うて、強引に貰うおかげじゃ詰らん。
 何故神様がね、喜んで下さるおかげというのは、愈々神様を確信するから。段々信じられる様になるから、信じられただけのおかげが頂けて来る様になる。そこにはです、私共は絶えず今度はその反面、我屑の子である所のです、めぐり深き自分の家であり、めぐりの深い私であるという、そこが分かるという事だ同時にそこに、私の様な者の上にどうしてこの様なおかげが受けられたであろうかと思うたら。
 嬉しいやら悲しいやらという、感涙に咽ばして頂ける程のものが、いや是は何の宗旨宗派にもなかろうと思われる様なものが、ここから湧いて来る。しかも是は尽きるという事がない。湧いて来る。しかも湧いて来たからもう是でいいと言うとじゃない。もうそれを限りなく受けていける道なのである。吾ただ足るを知る。もう是で満ち足りたと言う様な思いはもう何時になって、死ぬ迄ないのです満ち足りない何時までも。
 と言うて不平でも無からなければ不足でもない。私の様な者がと言う所なのである。にも拘らず神様はこの様なおかげを下されて有難い。勿体ない神様なればこそと、神様がそのお礼を申し上げる所へ、神様から尽きぬおかげを被る事が出来る。神様の仰る事に間違いはない。こう確信出来る所にです、神様がもう覚えんごとなってから、自分を信じてくれる氏子の上におかげを下さる。
 しかもそれが一生が修行じゃと仰る様に、そういう修行がね、一生続けられる。限りない喜びから限りない喜びに、言わば終始する。お道の信心というのは。だから、言わば、枯れ果てた様な雰囲気というのが確かにない、金光様の御信心には。枯淡の味と言った様な物がないのである。何時も生々しいのである。だからもうちょっと古うなると、もう見苦しゅうなるのである。魚でもそうです。
 新鮮な間ほど血が滴る程だから有難いのであり、美味しいのである。けれども結局油断して明くる日になると、もう匂いがプンプンする様になる、腐って来る。信心もそうなのである。だからもう、本当に自分の信心というものがです、もう何時も油断ができない。そこで、何時もですね、なら是で済んだとは思わないという信心。自己を肯定しないでの生き方と同時に。否定のない、はあもう、私の信心じゃ詰らん。
 そげな言い方しちゃいかん。もう現在、唯今はもう是で信心でいいのだというのです。そうかと思うと横の方には、いいや是で済んだとは思いませんと言う物もあるちゅう。同居して、しかもそれが一つになっておる。で、今日皆さんに言いたい所はです、私の信心は言うならもう、現在の私の信心は是で良いと思い込めれる、信じれれる信心を頂け、毎日お参りするのがほんなこつばってん。
 ご無礼そこからはです否定しないでの信心なんか生まれて来ない。お参りしようと思やあお参り出来とじゃけれども、どうも踏ん切りが付かんでご無礼しております。是では今私が申します様に本当に是は金光教だけにしか無かろうと言われる様な、湧いて出て来る様な、喜びの源泉がすでにもう枯れておる。ですからね誰の真似かれの真似じゃないのです。私なりに皆さんなりに一端の信心をさして頂けと言う事なんです。
 子供は子供なりなんです。青年は青年なり、年寄りは年寄りなりの一端の信心をさして頂いて、そこんところに油断のない、信心をさして貰う所から。言うなら我神の子の自覚もいよいよ出来て来る、それでいて、なら是で済んだとは思わない。私の信心が少しもう少し成長したら、もっと今までは考えも付かない、もう及びもしなかった事が出来る様になるだろうと思わにゃいかん。
 今は出来んけれども、先々は出来る様になるだろう、この調子でいったらというものがなからにゃいかん。言うなら金光大神にでも誰でもなれれるんだという自覚。とても私しだんが金光大神てなんてんてんなんてんちゅう事はいらん。それも言うちゃあならん金光大神を目指さなきゃいけん。と言うてなら一足飛びに成れる訳にはいかん。そこまでにはやっぱり難しい。それこそ下から上に水を引く様に難しい。
 けども難しい間が素晴らしい。難しい間が神に向かうていく姿なんです。この姿の中にです、雨も降ろう風も吹こうけれどもです、それを一切神愛と分からして頂けれる信心。そこに信心の楽しみが出来て来る。先程、今日はこのお祭り前のお話に、光昭がおかげ頂いておりました。そしてお話をしております中に、今僕はあの、一週間の断食をしておりますと。今日が丁度断食の明けの日で御座います。
 丁度今日が、今日で満願の日であります。とにかく矢張り3日目頃がやっぱ一番きついですね。そしてですね思うた事。どうして人間な、こんなにも、食べる時間が多いじゃろうかとこう思うた(笑)。若先生が横からそれを聞きよってから、光昭、お前は今度の断食でそれが分かったらもう、それがそれ一丁でよかぞちゅうてからその、若先生から言われたという話をしておりました、ね。
 どうしてこんなに人間は食べる時間が多い事じゃろうかと。もう何時も誰かが食べておる様に見える訳なんです。いや見えるのじゃない。事実食べておるんだと。この様に何時も何時も食べて食べておるのに、不平どん言う段のこっちゃあない、不足どん言う段のこっちゃあないと言う事なんです。一週間断食してみて分かった。そして動きよる事がです、生かされておる事が段々分かって来た。
 私はもう一つ素晴らしいと思った事がですね、僕が断食をすると皆にこりを積ませるとこう言う。それは本当に相すまん相すまんからこそ。その相すまんからこそそれ以上のものを僕が頂かなければ、親先生のお祈り中にあっても相すまんちゅうた。皆に是だけのこりを積ませた、神様に対して相すまん親先生に対しても相すまん。だからこの位な物にこり積ました様な事じゃあない。
 光昭自身が、こういう信心の徳を受けた、おかげを受けたと言う事にならなければ、親先生に対しても、相済まんからと言うております、実際ねもう本当にあの表行がどうのこうのと言うけれども、実際やって見る事によって生まれて来る物、それはもう生き生きとして。もう今日は私、あの人おどおどと話しておりますけれども、素晴らしい筋の立ったお話をしています。
 自分のこの断食を通して、分からせられたものが、かくで御座いましたと言う様な、お話をしておりましたがです。下から上へ水を引く様に難しい。それが10年掛るか20年掛るか分からない、程に難しい。けれどもその折角これだけ難しいところを、通らせて頂くのであるからです、是にも増したものを頂かなければ、神様に対しても相すまんと言う事にならにゃいかん。
 是だけの言わば難儀、苦労をさして頂きよるのだから。是が唯の難儀苦労に終わったんじゃあでけんのだ。だから是を修行とさして頂く時に、初めて分からして頂く所の神愛の喜び。神愛であると云う事が分からして頂ける喜び、ね。この喜びが分かって行くから、この期間が楽しいのあり、又有難いのである。そういう中にあってでも、どうしてこの様にです、有難いやら嬉しいやらと言う様な心が開けて来る。
 おかげを頂いた暁にです。いわゆる、そうして行く内に、徳が受けられると最後に結んでおられますが。そうして行く内に、なら徳が受けられるんです。その道すがらにですね、徳を受けて行く所の稽古というのが成されて居る訳なんです。その道すがらをですね、私共がならどういう姿勢をもって通らして頂くかというとです。いよいよ、ある場合は我屑の子としての、私の様な者に。
 こん位な目にあうのはもう当たり前。そういうもの。誰を不平にも不足にも思わない。そういう思い。またある時にはです、自分の思うた事そのまま神様が思いなさった事だったなと分からして頂く信心。自分が行うておる事は、神様がなさっておられるんだなと、思われる程の確信に満ちた働き。そういうものが、交互にです入れ混じって生まれて来る物。そこから尽きぬ信心の喜びが頂けれる。
 しかもそれはもう是で足りた是でもう満ち足りたと言った様な、言うならば悟りの境地。さっきあの申しました枯れたね枯淡のもう悟りすましたと言う様な所は、金光教の信心にはもう何処を探したって無いんです何時も生々しいもの。その代わりにちょっと間違うと見苦しゅう成って来るんですね金光様の御信心は。見苦しゅう成って来る生き生きしておる間は素晴らしい。だから是が腐れ掛ったらもう愈々いかん。
 それが最近の、なら金光教の中にもです、腐れ掛って居る様な物もあるかと思うと、又はもう本当に何々宗、何々派と変わらぬ様に枯れ果てた様になって居る様な物もある。形は見事そこには言わば干物の言わば乾物程度の味わいしかない。金光様の御信心はもう何時何時までも生々しいまでのもの。そこからしかこりが生まれて来る。是は私それはあるだろうと思うんですけれども、私が読んで来た色々な宗教宗派のですね。
 中には教祖の神様の仰っておられる、又皆さんからもよく聞く是は言葉なのです。本当に私くらいな者に、この様なおかげを頂いて、思や思う程嬉しいやら悲しいやら。と言う様な考えに尽きる事が出来る。そういう感銘を受ける事が出来る。そういう私はおかげをです頂き続けて行く事なのだ、金光様の御信心は。何処までも私の様な者がというものと、神様を信じきってもうやまぬ。今例えて言うならば大坪総一郎が外へ出てるんだ。どんなに雨がどんな嵐がありよろうが、止まらなきゃならんのだ。